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執筆者の写真Kanae

心のキョリのはなし。

更新日:10月20日





時折、心と体が離れているように感じる。



見るもの聞くもの食べるもの書くもの。どれもこれも体が受け取っているのに心が追いつかない。


貴方にもそんな時はありますか?


目の前のものを素直に感じるって思ったより難しい。心が過去や未来のあれこれに押し潰されて”今”に敏感になれない時。喜んだり泣いたり怒ったりするのに疲れて”今”が霧にかかってよく見えないこと、それにさえ気づかずにモヤモヤしたまま過ぎていく時間たち。私達はどれくらい心の動きに気付いてあげられているんだろう。





自分の体でさえ、自分の心の距離を近く保つのにこんなに苦労するんだから、他人との心の距離のこととなるともっと厄介だ。



理解できていると思い込んでいた相手のことをうまく受け取れなかった時、理解してもらえていると期待していた人からの突然の裏切り。


それは理解していたつもりなだけで、毎日変わりゆく人の心に寄り添うことに怠け者になっていただけ。


それは裏切りなんかじゃなくて、愛が一人歩きして帰り道を忘れたから。




頭では理解しつつも心にポッカリと空いた穴はそう簡単には埋まらない。


朝の通勤電車に揺られながらそんなことを考えている自分にめんどくさいやつだなんて言い聞かせても、窓から見えるニューヨークの摩天楼たちは今日も同じ高さで、心にポッカリと空いた穴はそのままだった。



そのままだったからもう少し考えてみることにした。







愛するということは選択だと思う。


相手と自分の心のキョリを日々日頃から調整し続けることだと思う。それは離れていく心を近づけ、近づきすぎることから起こる衝突を避ける為に相手が相手らしくいられるためのスペースを与えること。


だから自分の愛する人たちを大切にする毎日の努力の積み重ねがありきの愛だと思う。


愛し合う上での心の距離の取り方は2人で作る芸術で、日本語で言うと果てしなく胡散臭いけれどそれくらい繊細で素敵なものだ。


相手がどんな時にどうして欲しくて、どんな言葉が好きでどんなことをしたら心の支えになるのか。考えて心の距離をとる。


最近になってやっと相手との距離の取り方に気をかけられるようになったと思う。


昔は私は関西人だからと、とりあえず殻破ってしまえという程度で人との距離を縮めていたけれど、最近は距離感の美徳を味わえるようになってきた気がする。NYに来てから特に、違う文化や価値観を持ってして完全に理解し合うことの難しさを身をもって学んだ。そして、人がそれぞれ持つ違った色を活かすには、自分の価値観や世界観を闇雲に押し付けるのはあまりにおせっかいなのだと。


触れないことや言葉にしないこと、敢えて見せない側面が存在する上で築ける信頼関係があるのではないか。無駄に傷つけ合う必要はないのではないか。


お互いにできるだけ嘘のない素直な関係を保つ為にこそ、人それぞれ必要な距離感というものが存在して、それを2人で少しずつ理解して寄り添う努力する。そこに信頼と愛情が生まれるのではないか。



そう考えると少し上手くいかなかった関係にも心の整理がつくような気がする。



そして本当にそうだとしたら、私たちは常に自分自身に素直でいなければならない。どんな時も逃げずに、自分が1番に自分のことを理解してあげる努力をし続けなければいけない。自分の身体の中に心の居場所を作ってあげないといけない。責めてばかりじゃなくて心が自分らしくいることを諦めない為に、私たちは心に感じる自由を与え、そして優しく抱きしめてあげる必要がある。




貴方の心は今、貴方の近くにありますか?




Instagram @kanaesawaguchi

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