貴方はまだ覚えていますか?
子供の頃の貴方を。
どんな思いをして、どんな子供で、どんな表情をしていて、どんな転び方をしながら、どれぐらい泣いて大人になりましたか?
良い思い出が多かったですか?それとも、辛い記憶しか思い出せませんか?
川上未映子の黄色い家を読んだ。感想は、ない。のかもしれない。一言で表してしまえば”空虚”という言葉がぴったりだと感じた。
まだ読んでない人には是非読んで欲しいと思うからこそ、具体的な内容を明かさずに書きたい。
主人公の女の子はスナックで働く社会性に欠ける母親のもとで育つ。幼い頃から自立して生活することを求められる環境で彼女なりに物事を判断し、自分の意思と向き合いながら置かれた環境を生き抜こうともがく。その中で出会う人たちに翻弄されながらも人生を歩んでいく。
読んだ人からすると、後味は良くない作品だと思う。その平坦さがまたとても現実味をおびていて、作中ではこんなに沢山のことが起こっているのに、どうして最後にはまるで何も起こらなかったかのように感じるのだろうか。まるで本当にパラレルワールドが存在しているかのように。人は自分自身が台風の目の中に存在する時、その記憶がごっそり自分のことではなかったかのように感じるのかもしれない。
子供の頃の記憶というのは鮮明で希薄だ。鮮やかに思える反面、その色鮮やかさはまるで自分で後から色付けをしたかのように曖昧で信用性に欠ける。
私は夜職をしている親の元に生まれた。それが私の普通でなんの疑問もない人生だった。作中の母親はお金の管理に無頓着で生活が厳しかったという点で私の親とは全く違ったけれど、それでも子供の頃の日々を思い出さずにはいられなかった。
夜に親がいない家で祖父母と過ごすことが多かった私の子供時代はまた違った幸せの記憶で色付いている。
おばあちゃんに寝かしつけてもらった私は夜中に冷たい風に起こされる。仕事終わりのお父さんが祖父母の家に私を迎えに来て家まで抱っこして連れて帰ってくれた。冷たい風と暖かいお父さんのぬくもりを感じ、子供ながらに感じていた孤独が満たされる幸せな瞬間だった。そうして起こされるのが幸せで、ずっとそうしていて欲しくて起きていないふりをした。
木曜日は保育園をおやすみする日。お母さんとお昼から一緒にいられる日。CoCo壱をテイクアウトして、ベッドサイドの椅子を机にしてお母さんと食べるカレーはおいしかった。自分のお母さんをママと呼ぶおじさんたちは色んなところに連れてってくれたし、自分のお母さんをママと呼ぶお姉さんたちは私におもちゃの口紅をくれたりした。
子供ながらにして私の生活や周りの人たちが、学校で聞く”普通“とは少しずれていたことには薄々気付いていたけれど、また違った幸せを感じることはできたし、その違いのおかげで”物事は自分のものさしで判断して決める”ことの大切さに気づけたのだと思う。
昔も今もこの社会にはいろいろな人が共存している。私が住んでいるNYという多様性が謳われる場所は、私の肌感では日本なんかより格差が更に顕著だ。まるで違う惑星の宇宙人達がお互い交わるのを諦めたかのように同じ街にテリトリーを構えて共存している。口では簡単に”みんな違ってみんな良い”と言えるけれど、果たしてそれはお互いを認めていることになり得るのだろうか。結局他人事だと思っているだけではないのか。無関心だからこそ自分の”世界”以外の世界に対して、比較的に肯定的にいられるのではないか。
職種や育ちの良し悪しというものでの生きにくさは、そういった社会からの宇宙人扱いからきているのだと思う。現に水商売の中身を知っていたら美化なんかできないしかっこいいなんて言えるはずがない。そんな軽々しい多様性を謳った称賛はもっと私たちを孤独にさせる。知るという行為を飛ばして多様性のある社会なんて実現しない。黄色い家はそのことを私達に教えてくれる。
みんなはじまりの場所は選べないだけで、違う惑星と交わる努力なしでは井の中の蛙のままなのだと思う。知らなければ傷つかずに済むことがたくさんある中でどれだけ傷付く勇気を持ってはじまりの場所から外に出ていけるか。そこでやっと相手から見た自分を知り、そして自分から見た相手に向き合うことが出来るのだと思う。
今貴方が感じている生きづらさがなくなることはない。だけど他人の違った生きづらさを理解することで癒される何かが、救われる誰かがいるのだと私は信じている。
幸せは色んな形をしている。それは黄色いものたちかもしれないし、親が夜中の4時に食べる焼肉の匂いに起こされる時に感じたものかもしれない。美化されたものかもしれないし、実は起こってさえいなくて、記憶の中でしか存在しない幸せかもしれない。
それでも小さな私たちは沢山の感情を感じながら徐々に大人になっていった。そしてその小さな私たちは遠い昔の記憶と共に今の私たちの中に住んでいる。
貴方の家は今何色ですか?
ぼくの名前は ”紬” と書いてTsumugiと読みます。
周りの人々に幸せを紡ぐ人間になりますように と願いを込めて
両親がくれた大事な名前です。
叶さんの現在の職業に対して勝手に憧れを抱いて、勝手にInstagramをフォローしていました。
自分とは全く違う環境に身を置き、色々な風景や文化に触れ、時々の感情や価値観を発信していて
かっこいいな、羨ましいな、と憧れています🙂↕️
色々な形の幸せ
目に見えるものかもしれないし、見えないかもしれないし
どんな形であれ、方法であれ
自分の近くにいる人たちに
たっぷりの幸せを紡ぎたいと思います。
黄色い家読んでみます!