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クリエイティブで被災地に寄り添う。beatfic experimentが描く復興のかたち

  • 執筆者の写真: Haruki
    Haruki
  • 8月20日
  • 読了時間: 12分

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「被災地」や「防災」と聞いて、考える必要があるとは感じつつも、どこか自分ごととして捉えにくい、そう感じている人は少なくないかもしれません。


そんな中、被災地支援に特化したクリエイティブレーベル「beatfic experiment(ビートフィック エクスペリメント)」は、能登の流木から作った風鈴の制作や大阪での食・アートをテーマにしたイベントなど、クリエイティブの分野から復興支援の輪を広げています。


今回は、beatfic experimentの代表兼クリエティブディレクターであるイトウタクミさんに立ち上げまでの背景や、クリエイティブレーベルとして復興支援を行う意義について話を伺いました。


イトウタクミ:2000年生まれ。福島県出身。明治大学商学部卒業。被災地支援を軸にしたクリエイティブレーベル「beatfic experiment」代表兼クリエイティブディレクター。
イトウタクミ:2000年生まれ。福島県出身。明治大学商学部卒業。被災地支援を軸にしたクリエイティブレーベル「beatfic experiment」代表兼クリエイティブディレクター。


静かに、そっと手を差し伸べるような優しさが必要



──この活動を始める前のご経歴を簡単に教えてください。


ブランディングコンサルタントの会社で、インターン期間を含めて約1年ほど働いていました。海外に通用するような「侘び寂び」を意識したデザインを強みにした会社だったのですが、そこでラグジュアリーブランドやホテルなどのブランディング、ビジュアルアイデンティティの企画に携わっていて、


海外のフェスティバルの案件などにも関わらせてもらいました。



──もともと日本の伝統に興味があったんですか?


そうですね。福島県出身なんですが、浪江町大堀地区に「大堀相馬焼」という伝統工芸があります。東日本大震災の後、その地域が帰宅困難区域に指定されてしまって。その窯元の避難先がたまたま自宅の近くだったので、大堀相馬焼のブランディングデザインに携わる機会があり、昔から伝統工芸が身近にありましたね。



──東日本大震災は、福島で経験されたんですね。


私が住んでいたのは内陸だったので津波の被害こそありませんでしたが、自宅は瓦屋根が落ちて半壊しました。


あの日は、放課後に友だちの家の近くで5人くらいで遊んでいたんです。ちょうど家に入ろうとした時に突然、大きな揺れがきて。立っていられないほどの揺れで、気がついたら友だちの家の一階がぺちゃんこに潰れて、二階建ての家がまるで平家のようになっていました。震度6強だったと思います。


畑や道路に逃げても、地割れや陥没が起きていて、マンホールが自分の背丈くらいまで隆起していたり……。とにかく、みんなで輪になってしゃがみ込むことしかできませんでした。その後、すぐに祖母が迎えに来てくれて、なんとか避難できました。



──震災後はどのように過ごしていたんですか?


家自体は半壊でしたが、屋根をブルーシートで覆えば住めないことはなかったので、家族みんなでリビングに布団を敷いて寝る生活を続けていました。ただ、水道は1ヶ月近く止まっていたので、生活は大変でしたね。


祖父が放射線量計を製造している会社に勤めていて、震災当時は中国に出張中だったんです。原発事故のニュースが届いたのか、国際電話で「今すぐ逃げたほうがいい」と連絡があって。でも道路は陥没しているし、ガソリンもない。新幹線も止まっていて、とても避難できる状況ではなかったので、自宅で避難生活を送るしかありませんでした。


当時は、ガソリンを求めて並んでいた車の排気口が雪で埋もれてしまい、一酸化炭素中毒で亡くなった方もいました。そういった二次被害も起きてしまっている状況でした。



──東日本大震災以降、福島での被災地支援には継続的に関わっていたとお聞きしました。


震災後もいろいろな形で地元と関わり続けてはいました。震災が来た2年後の小学6年生の時、参議院主催の「こども国会」に出席したことがあって。全国の代表の小学生たちが国会議事堂に集まって、復興や家族、地域、世界とのつながり方について意見を交わす場だったのですが、実際に国会議事堂でスピーチをさせてもらったんです。高校生の時には福島県の防災マップのデザイン制作に関わったこともありました。



──震災からこれまでの経験が、現在の被災地支援の取り組みを始めるきっかけになったのでしょうか?


継続的に行なっていたものの、将来的に被災地支援をやろうとは考えていなくて。



──ではなぜ?


大きなきっかけは、2024年の能登半島地震でした。東日本大震災の時、全国から炊き出しや物資、折り鶴などさまざまな形で支援をいただいて、元気をもらったんです。だから今度は、自分が助ける側になる番だと自然と思いました。



──なるほど。


初めて現地に行ったのは、地震から半年以上が経った2024年9月でした。実はその時期、地震で地盤が緩んでいたこともあり豪雨による土砂崩れが起きていたんです。前職の先輩と3人で、最も被害が大きかった珠洲市に入りました。


そしたら、想像以上に復興が進んでいなくて。現地には日本財団の方や土木作業員の方はいらっしゃったものの、個人でボランティアにきている人は少なく……。そんな状態を目の当たりにして、自分たちのできることは何かと考えさせられました。



──福島での体験と、能登の被災地に行った時のギャップもあった?


それもあったと思います。もちろん、全てが手つかずというわけではありませんでしたが、半島という土地柄、高齢化が顕著だったこともあり、メディアや社会から置き去りにされているような空気を感じました。


自然災害が起こりやすい日本に住んでいる以上、誰もがその当事者になり得るのに、自分たちは蚊帳の外というように見えて、それがとてももどかしかったですね。


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──その体験が、今の活動へとつながっていたんですね。


初めて被災地にボランティアとして行ったとき、自分にできたのは土砂を運ぶことくらいだったんです。でも、1時間かけて何往復もしても、自分たちが動かせる量なんて、ショベルカーのひと掬いにも満たない。それで、「これは土砂運びのプロに任せた方がいいな」と痛感しました。適材適所というか、自分は別の形で貢献すべきなんじゃないかって。



──そこで「自分の得意なこと」での支援にシフトしたと。


はい。もともとブランディングやビジュアルの分野が得意だったし、大学時代には写真家としても活動していて、ファッションブランドのルック撮影や音楽のジャケット制作もしていました。だから、そういった「見せ方」や「伝え方」の部分で被災地をサポートするのが、自分なりの貢献の仕方だと気づいたんです。



──その考えは「beatfic experiment」にもつながっていますよね?


そうですね。被災地支援の団体の方々ともつながりがあって、彼らの活動を見ていると、どうしても届けられる層が限定されてしまっていることを感じていました。そんな中で、ある程度インフラが整ってきた被災地から「一緒に能登音頭を踊りたい」「歌を聴きたい」といった声が上がるようになって。


そこで、自分の周りにいる音楽やアート、ファッション、食などの分野の仲間たちと一緒に、心が豊かになるような体験を届けたいと思ったんです。被災地支援に「文化」や「感性」のアプローチを取り入れることで、新しい関わり方ができるんじゃないかと。その考えが、「beatfic experiment」の核になっています。



──当事者としての思いもあるんですね。


はい。自分自身が被災者だったからこそ、「被災地ビジネス」といった誤解を生まない、ピュアな関わり方ができると思っています。大きな声で何かを主張するというよりは、静かに、そっと手を差し伸べるような優しさが、今の日本には必要なんじゃないかと。




五感で感じられる体験をいかに届けられるか



──被災地にフォーカスしたクリエイティブレーベル「beatfic experiment」を立ち上げたのは2024年の11月。


9月に能登を訪れて、「これはもうやらなければ」と思い立って、すぐに動き始めました。



──「beatfic experiment」の活動内容を改めて教えてください。


主に、イベントとプロダクトの開発を行っています。被災地にあるものやその土地ならではのものを、都心部などでリブランディングして販売したり、それに付随するインスタレーションやイベントを企画したりしています。


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立ち上げ当初はひとりでしたが、周りにいる友人にそれぞれの得意なプロジェクトで関わってもらいながら、さまざまな分野でアプローチしています。レーベルという形をとっているのも、活動内容を固定せず、その時々で柔軟にかたちを変えていきたいという思いからです。



──被災地とは離れて、今年3月には大阪で復興支援イベント「each other」も開催されましたね。


GRAND GREEN OSAKAという梅田の大規模野外公園で、アートや食、音楽を通じて五感を刺激するイベントを実施しました。私自身、感動した時や楽しかった出来事って、音や匂い、風景といった感覚的な記憶とセットになっていることが多いんです。なので、アートや食だけでなく五感を使った体験の設計を意識しました。


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このイベントでは、自分が能登で撮影した写真を、6メートルのサイズにプリントして展示して、そこに能登で収録した音を大音量で流してみたんです。会場が大規模だったこともあり、まずは視覚と音で圧倒したくて。ビル群の中に響く波の音には、ちょっとした違和感と心地よさがありました。


そこで、出店者として「髙崎のおかん」という熱燗と和食のコース料理を出すイノベーティブなお店にも協力していただいて、能登で被災し、再開が難しくなっている酒蔵から救出された日本酒を熱燗にして提供しました。


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──いいですね。アートを通して被災地支援を行うことに、意義を感じた瞬間はありましたか?


阪神淡路大震災を経験した高齢の方や日本文化に関心を持つ外国人の方、東北でボランティアをしてくださった方、インスタレーションが好きな若者など、本当に幅広い世代の方が来てくださったんです。


そこで皆さんが言ってくださったのは「ありがとう」という言葉でした。阪神淡路大震災を経験した方は、「能登には行けないけど、関西の地から応援したいと思っていたので、こういう場を作ってくれてありがとう」と。


北陸から来られた方には、「自分たちだけでは力では都市部に伝えられないので、本当に助かる」と言っていただきました。


正直、そんな言葉をいただけるとは思っていなかったので、純粋にやってよかったなと思いました。



──体験型のイベントは作品を後世に後に残すというよりは、今を大切にするという印象を受けました。


そうですね。メディアなどで切り取られて残っていくのはポジティブに捉えていますが、どちらかと言えば、その瞬間に身体で感じる体験をいかに届けられるか、という点をとても大切にしています。


大阪のイベントは、いろんな世代の方が行き交うパブリックな場所だったので、誰でも共感できる空間作りを心がけましたし、7月に展示を予定している野外音楽フェスティバルrural2025では、かなりアンダーグラウンドな層が集まるので、そこではまた違ったアプローチ方法を考えています。


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──その他にも、新たな企画を準備中だと伺いました。


そうなんです。東京と能登をつなぐ、手紙を届けるイベントを計画しています。同時にオフラインでやっていく良さも感じています。


SNSで誰とでもつながれる時代だけど、蓋を開けてみたらスカスカだった、みたいな経験って自分にもあるんですよね。


それよりも、現地で困っている方と直接言葉を交わしたり、一度しか会っていないのに、その後も連絡を取り合ったり助け合ったりする関係が生まれることの方がずっと心に残る。



能登に移住。東京から離れて気づいたこと



──現在は能登に移住されたんですよね。


東京から能登に通うとなると交通費の問題もありましたが、それ以上に、この活動を始めるなら、福島や石川を拠点としている方が自分の言葉にも行動にも説得力が出ると思ったんです。


立ち上げるにあたって、代表である自分が東京でオンラインだけで取り組むのは違うなと感じていて。だからこそ、思い切って移住しちゃおうと思って。



──東京から能登に引っ越して心境は変わりましたか?


マインドが楽になりました。東京って、シンプルに人が多すぎるなって(笑)。これだけ土地が余っている日本で、なんでそこに過密するんだろうって。


メンタルヘルス的にも、東京の暮らしってスタンダードがマイナスになりがちだと思っていて。よくある話ですが、満員電車で押し込まれたり、普通に道を歩いていて人とぶつかることが日常になっている。でも、俯瞰して見たら、けっこう異常ですよね。そういうことがないだけで、心がヘルシーでいられる。


それに、きれいな山や海など自然がすぐそばにある環境なので、気持ちや思考がクリアになる。ゆっくり進んでいるのに、結果的に効率がいいことも多いですね。



──いつか能登でもメンタルヘルスのイベントができたら面白そうですね。


被災地の中でも特に「人と話せないこと」が心の健康に一番影響していると感じています。例えば、仮設住宅に入ると、それまで隣に住んでいた人がどこに行ったのか分からなくなってしまう。コミュニティがバラバラになって、公民館のような集まる場所もないので、高齢者の方は引きこもりがちになってしまうんです。


この間も、ふらっと立ち寄った酒屋のおばあちゃんと話をした時には、涙を流しながら「若い人が来てくれるだけで希望が持てます」とよろこんでくれて。「こうして話しているだけで、私にとっては復興支援なんだよ」と言ってくださったんです。


これが本質的なメンタルヘルスケアなんだなと。なので、そういったトピックでもいろいろできるかもしれないですね。



──被災地と都市では災害への捉え方に差があるように感じることもありますが、都市で暮らす人との意識のギャップについて思うことはありますか?


東京は忙しい街だし、日々の暮らしに追われていると、被災地や災害のことまで考える余裕が生まれないのが現実。違和感というより、しょうがない部分もあるなとは思っています。


不安を煽るわけではありませんが、現実として、地震はどこにいても起こり得るし、特に東京は災害に対して弱い街。いつどこにいるか分からない以上、防災バッグを用意したから大丈夫という話ではないと思います。だからこそ、日頃から人とのオフラインのつながりが大切だと思っています。


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──最後に、今後の展望について教えてください。


まずは、自分たちの手が届く範囲で、友人や知り合いに向けて、自分たちの力でアプローチをしたいと思っています。


「防災」や「被災地」という言葉を全面に出すと、「自分には関係がない」と思ってしまう人もどうしても多い。引き続き、自分の周りの人が好きな食やファッション、アートを通して巻き込むことで、その結果、過去の被災地や未来の災害・防災について考えるきっかけを生み出していければいいなと思っています。


年内には、東京(8/12に虎ノ門ヒルズ49F屋上TOKYO NODEにて開催済み)と大阪(9/14にGRAND GREEN OSAKAのメインエリアで開催予定)でも、カルチャーに関心のある方に向けて届けられるようなイベントを開催できたらなと考えています。仲間を増やす感覚じゃないですが、まずはより多くの方に知ってもらえるきっかけの場を作っていきたいです。


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